エレベーター・サスペンス/第10回 大森葉音 エッセイ

 10年ほど前だろうか。「ピンポンダッシュ」の被害に遭ったことがある。
 とはいえ、住んでいるのは集合住宅。ピンポンダッシュといえば、一戸建てのドアフォン、チャイムの印象だ。ネットで確認してみると、アパート、マンションの戸別の部屋のドアフォンを押して逃げる「犯人」もいるようだが。
 わたしがやられたのは集合住宅のエントランス(共有玄関)のインターフォン。
 通常は、次の手順で利用される。
 知人や宅配便業者が訪問してくる場合、このインターフォンに用件先の部屋番号を打ちこむ。すると、その部屋の「ピンポン」が鳴り、備え付けのモニター画面に訪問者の姿が映る。エントランスのインターフォンにカメラがあって、その映像を送ってくれるのだ。居住者はモニター装置盤のボタンを操作し、映像の訪問者と会話したり、エントランスの共有ドアを開けたりできる。共有ドアを開けてもらった訪問者は、エントランス奥のエレベーターに乗り、訪問先のフロアへ。エレベーターを出たら、相手の部屋まで行き、そこで戸別のドアフォンをもういちど押す。訪問者が来ることをすでに知っている居住者は、開錠してドアを開ける。

 これでどうやってピンポンダッシュをやるか。
 部屋でくつろいで本を読んでいると、エントランスのドアフォンが「ピンポン!」と鳴る。つまり共有玄関のインターフォンで、わたしの部屋番号を誰かがプッシュしたのだ。(誰だろう? 訪問客などいないはずだが……? 宅急便だろうか?)
 本に栞(しおり)をはさみ、立ち上がる。モニター画面を見にいく。
 だが、その画面には「無人の玄関」が映っているだけなのだ。
 この世のものではない存在――幽霊(?)――が、うちの部屋番号をプッシュしたような不気味さがある。これを1、2週間に1度くり返された。
 最初はただ「?」と思っただけだった。
 次に不安になった。何が起こっているのか、まだよく分からなかったのだ。生来、ぼんやりした人間なのである。
 だがやがて、(これは悪ふざけ、いたずらなのか……そうか! ピンポンダッシュの共有玄関版なのだな)と理解するにいたった。

 わたしが悩んだのは、次の2点。

(1)犯人は集合住宅の住人である。
(2)犯人は集合住宅の住人ではない。

 (1)なら、容疑者は絞られる。集合玄関や廊下、自転車置き場、共有の物置などですれ違い、ひょっとしたら挨拶を交わしているかもしれない。しかし、(2)となると容疑者の範囲が広がる。わたしが住んでいる集合住宅周辺の公道を日常的に利用している誰かであり、生活圏を共有しているのだろう。一緒に信号待ちしたり、スーパーで買い物したりしているかもしれない。抜け目のない刑事か探偵のように、道行く周囲のひとびとにわたしは疑いのまなざしを向けた。だがそれで「犯人」や「不審な人物」を特定することはできない。観察力も推理力も圧倒的、絶望的に不足しているからだ。
 エントランスにはもちろん、監視カメラがある。したがって、管理会社に通報し、犯人の映像を見せてもらうことができたかもしれない。面識のある人物が悪意でやっているのなら「顔バレ」するはずだ。一発解決である。
(ま、それは最後の手段だな……)
 四六時中、部屋にいるわけでない。そこまでして犯人を特定しようとは思わなかった。

 そうして1年くらいも経ったであろうか(放置しすぎ)。ある日、用事があって外出するため、わたしは自室を出た。エレベーターに乗って地上に降り、エントランスへ。共有玄関のドアが開き、小学3、4年生くらいの女の子とすれ違った。そのままドアの外に出たわたしは、何気なく、エントランスのドアフォンに視線を向ける。

 「3XX」

 そこには、打ちこまれたばかりの、自分の部屋の番号が点滅していたのである。わたしは反射的に立ちどまった。タイミング的に「犯人」は、あの少女以外ありえない。彼女はいつもいたずらで打ちこんでいる「3XX」の部屋に誰が住んでいるか、知らない。だからエントランスで、わたしとすれ違っても特におどろくことなく、平然としていたのだろう。
 わたしは集合住宅の外に出た。最寄りの地下鉄駅に歩きながら、脳内は高速回転している。「犯人」が同じ集合住宅の住人と判明したのだ。同じ建物に住んでいる面識のない少女だ。……部屋番号……名前……親の名前や職業……どうやったら分かるだろうか。少なくとも(2)の場合より、(1)の方が捜査(?)しやすい。10歳くらいで、いったい何が彼女を常習的な軽犯罪に駆り立てているのか? ただの愉快犯なのか? 「わたし」個人に対する恨みや執着による犯行では少なくともない……。何しろ、こっちの顔を知らなかったんだからな……。
 こころのなかで、あれこれ思案をめぐらし、ついにわたしはひとつのカウンターアクションを思いついた。

(あの子はいつも、部屋番号をプッシュした後、わき目もふらずに共有ドアを開け、エレベーターに乗りこむ。だから、こっちがモニターを確認するときには「無人の玄関」が映るだけなのだろう。それならば次回、ピンポンダッシュをやられたとき、すぐに部屋を出てみよう。そして彼女の乗っているエレベーターに、一緒にわたしも乗りこんだらどうだろうか? 彼女が何階の住人か、また何号室に住んでいるのか、知ることができるはずだ)

 自然にニヤニヤする。自分の思いつきが面白く思えた。

 実行の機会はすぐに訪れる。数日後に、次のピンポンダッシュが発生したのだ。
 室内のモニターなど無視し、わたしはすぐに部屋の玄関を出た。廊下を急ぎ、エレベーターへ。3階に住んでいるので、もたもたしていたらエレベーターの箱が4階、5階に上昇してしまう。
 間に合った!
 エレベーターのドアが開くと、やはりあのときすれ違った少女が乗っている。今度はわたしを見て、びっくり仰天。そうだろう。部屋の住人を知らなくても、自分がイタズラで押したフロアでエレベーターが停まり、そこから誰かが乗りこんでくるのだ。罪悪感があるせいか、混乱し、おびえているように思う。
(ふっふっふっふ。今までのお礼をたっぷりさせてもらうぜ。覚悟するがいい。あはははは。わっはっはっはっは!)
 恐怖に立ちすくむ少女を見て、わたしは腹の底で黒々と高笑いした……。

 相変わらず長い前置きで恐縮だが、今回は「エレベーター」の話である。
 エレベーターとサスペンスは、相性がいい。
 まずその閉鎖性。
 空間を限定することで生じるサスペンスがある。閉じこめられたり監禁されたり、人質に取られたり。
 次に高所性。
 これも一種の空間限定なのだが、ビルの屋上での格闘シーンを何度、映画で見させられたことか。高い場所での墜落の恐怖、サスペンスはエンタメ小説、映画ではすっかりおなじみである。1階、2階に停止しているエレベーターでその手のサスペンスは生じないが、10階、20階……70階、80階などの高層階なら。実際、高所のエレベーターシャフトでのサスペンスシーンは、ハリウッド映画でおなじみだ。
 B級感まんさいの映画『エレベーター』(2011)では、高層ビルの49階でエレベーターが停止し、9人の男女が閉じこめられる。10歳の少女(!)がふざけて緊急停止ボタンを押したのだ(ゆるさん)。あまり期待せず観たせいか、退屈せずに最後まで鑑賞できた。後半、けっこうグロいシーンがあるので、苦手なひとはご用心。
 近代は「加速する」時代だった。蒸気機関車、電信、自動車、飛行機、快速船、ロケット、インターネット……。ともかく速く目的地に到着したい。速く情報を広めたいのである。時間と空間を自由にコントロールした者が競争(狂騒?)的資本主義社会の勝者となる。そのとき、鍵になるのがスピード=速度だった。
 馬車が自動車に置き換わったように、階段はエレベーターに置き換わった(非常時の脱出用に生き残っているが、ビルで日常的に使用されるのはエレベーターである)。両者は平行移動と垂直移動の加速装置なのだ。そして、その加速感覚はサスペンスの時代=20世紀と無縁ではない。
 もっとも有名なのは、ノエル・カレフの『死刑台のエレベーター』(1956)だろう。
 
死刑台のエレベーター

 ルイ・マル監督の映画(1957)を先に鑑賞し、原作の小説は長らく未読だった。まず、映像フィルムを見ながらマイルス・デイビスが即興でトランペットを吹き、その楽曲が使用されている、という逸話を知ったはずだ。貸しレコード屋で『死刑台のエレベーター』のLPをレンタルした。カセットテープにダビングし、学生時代によく流していた。まず音楽を聴きながら、(どんな映像かな?)と空想したのである。疾走感のある旋律では、オードバイに乗った孤独な主人公が都会の夜を駆け回るストーリーだろうとわたしは思っていた。
 その後、映画を観て驚いた。主人公ジュリアンはエレベーターに閉じこめられ、ほとんど身動き取れない状態なのだ。夜の都会を自動車で疾走するシーンはあった。ジュリアンの自動車はチンピラ青年とその彼女に盗まれ、ふたりは特に目的地もなく、街をさまようのだ。
 ジュリアンはなぜ、エレベーターに閉じこめられたか。原作小説ではこういう次第である。
 派手な女性関係と自分の所有する会社の放漫経営のせいで、彼は高利の金貸しに多額の借金があった。その借金をなかったことにするため、同じビルに事務所がある金貸しをピストルで殺害する。自殺に偽装し、金庫のなかの約束手形を取り戻す。いちど自分の会社事務所に戻り、秘書に対してアリバイ工作をすませる。すでにオフォスビルを閉める時間となり、あわてて帰るしたくをし、ビル管理の担当者と別れの挨拶をすます。帰宅のため自分の車に乗りこむ。だがそこで、ジュリアンは忘れ物に気づく。
 せっかく苦労して取り返した手形が、事務所の机に置きっぱなしなのだ。
 土曜の夕方だった。次にビルに入れるのは翌々日、月曜の朝だ。自分と被害者の接点となる危険な証拠を、36時間近く、犯罪現場のそばに放置していることになる。
 気になったジュリアンは、キーを差し、エンジンをふかしたままの車を乗り捨て、ふたたびビルに戻る。ところが事務所に向かう途中、乗っていたエレベーターが停止する。ビル管理担当者が「建物に誰もいない」と思い込み、主電源を落としたのだ。

 小説のジュリアンは「ろくでなし」である。この原作、登場人物は誰も彼も「?」という言動が多く、感情移入が難しい。映画はその点、うまく改変している。ルイ・マルの『死刑台の……』は文句のない古典名作映画であり、いまさらわたしがなんだかんだと評言をつけ加えることは「屋上にかさねた屋の上にさらに屋をかさね、その上さらに……」の愚をおかすことになるだろう。
 それでもあえてひと言。この映画はわたしに「映画の見方のようなもの」を教えてくれたのである。
 当然ながら、映画の特徴とは「映像が動く」点だ。だが、この映画を観るまで、その点にあまり配慮せず、わたしはただストーリーを追っていた。それならば映像を観る必要はない。シナリオブックを読めばいいのだ。映画の映像はその理解を助ける、ストーリーの添えもの――ちょうど子供向けの本の挿絵やイラストのようなもの――として無自覚に受け取っていた。
 しかし、この作品のラストで「映画でなければこの表現はできない」「映画がなぜ、動く映像を観客に示すのか、その必然性は何か」に、わたしは気づいたのだ。
 結末に、写真が現像されるシーンがある。
 暗室で感光したフィルムを現像液に浸ける。すると感光核の周囲が銀粒子に変化し、光のあたった部分が黒く変色する。そして「像が現れる」。これらは一連の化学反応なので、化学式で表現することも可能だろう。しかし、ここで問題なのはそういうことではない。
 こみいった犯罪の動機についての、決定的な証拠が「像」となって浮き上がってくる。その「像」はそっけなく、さらりと示されてはいけない。それでは台無しだ。浸された現像液のなかで、ゆらめくように、ゆっくりと、時間をかけて、無のなかから浮上しなければならない。記憶の深い湖の底から水面へ。映画館の銀幕の奥から観客のまなざしへ。ある人物の「顔」の映像が現れる。しあわせそうな笑「顔」が。ここはどうしても「動く映像」表現でなければならない……。この決定的な証拠は、作中の刑事、鑑賞中の観客に深い衝撃と印象を与える。
 映画は、光と影のダンスだったのだ。そう考えれば、ストーリーは映画にとって決して第一義的なものでない。誌的映像美さえあれば、映画は成立する。ただしそれは、多くの観客にとって難解で意味不明の作品になるだろう。一方、「光と影のダンス」がストーリーと内的必然性をもって結託したら、文句なしの傑作が誕生する。ルイ・マルの『死刑台の……』は、その稀有な例のひとつである。

 日本でも再映画化された『死刑台のエレベーター』(緒方明監督/2010)は原作小説ではなく、ルイ・マルの映画を下敷きにしていた。主演は阿部寛、吉瀬美智子。かなり忠実な作りで、ラストシーンも踏襲されている。

 同じ20世紀中盤、やはりフランスで書かれたサスペンス小説、フレデリック・ダールの『夜のエレベーター』(1961)が今年8月、扶桑社ミステリー文庫から刊行された。

夜のエレベーター

 クリスマスイブの夜、故郷の街に数年ぶりに帰って来たアルベール・エルバンは、ビアホールで子どもを連れた女性と目が合う。その女性はかつての恋人に似ており、彼は息を飲む。彼女の方も、アルベールに視線をからませ、意味ありげなまなざしを返す。ふたりは会話を交わすことなく、店を出る。しかし、映画館で再び出会い、一緒に映画を観ることになる。疲れているのか、子どもは寝てしまう。その間に、ふたりの男女は互いに手を握り合う。サスペンスやミステリの場合、こういう展開はだいたい、女の方に何らかの企みがあるのだが……。
 その後、アルベールはある人物の死体を見つける。その状況は奇妙でミステリアスなものだ。
 ただし、ある程度のミステリ読者なら合理的な説明をすぐに思いつくだろう。興味深いのは、その謎が解けた後の皮肉な展開だ。タイトルにあるエレベーターはちゃんと出てくるし、なかなか印象的な使われ方をする。200ページ程度の長さなので、さらっと読めるはず。気軽な「秋の読書」におすすめしたい。

 さて、ピンポンダッシュに話を戻そう。
 エレベーターの箱に少女を追いつめたわたしは、ひとつ失策を犯した。それは自分の表情である。
 先ほども書いたが、(うっふっふっふっふ……)(わっはっはっはっは!)という黒い笑い、わたしの顔にはっきり出ていた。うれしくてうれしくて、仕方なかったのだ。そこで少女は即座に気づく。ピンポンダッシュの被害者がエレベーターを止め、一緒に乗りこもうとしていることに。
 判断はすばやく、動作は迅速だった。
 ドアが開き、わたしが乗りこもうとするよりはやく、少女はするすると隙間から外に出てきたのだ。成人だったら通り抜けられない狭さだ。ところが彼女は小学生3、4年生。扉が開くのをこっちが待っているあいだ、機先を制するアクションが可能なのだ。箱を出るとき、少女はニヤリと笑った!
(あれあれ? ちょっとちょっと……え? どこへ行くの?)
 こちらの動揺に関心など寄せない。まるで最初から3階に用事があったかのような少女の行動である。しかし、それは明らかにおかしい。3階でエレベーターを止めたのはわたしであり、彼女ではない。このフロアに行くべき場所などないはずである。
 案の定、少女は廊下に向かわない。方向を急転回し、階段室のドアを開けた。エレベーターを捨て、階段を使って逃げるつもりなのだ!
 なんという頭の回転のはやさ! くやしい!
 ここで少女の後を追い、階段室に一緒に入っていったら、わたしは「不審者」である。
「誰か助けて! 変なおじさんに追いかけられてます。きゃあああ! 変態!」
 などと叫ばれたら万事休す。
「いやいや。わたしはピンポンダッシュのいたずら小娘をこらしめようと……」
 と弁明しても証拠がないのでは……(前に書いた通り、監視カメラの映像があるはずだが、このときは思いつかなかった)。すんでのところで、階段室に入るのをわたしは踏みとどまった。このとき、別のことを思いついたからだ。
(そうだ! あの子はそもそもエレベーターで自宅に帰るつもりだった。つまり、階数ボタンを見れば、何階で降りるつもりだったか、確認できるはずだ)
 エレベーターはまだ3階で止まっている。ここまで書いた内容は、一瞬の出来事だったのだ。部外者には理解できない、わたしたちの暗闘はたぶん、3~5秒の間である。わたしは箱に飛び乗る。そして、階数ボタンに目を向け、歯ぎしりした。こころのなかで地団太を踏む。
(くっそー。おとなをなめくさりおったまねをしおってからに!)
 
 ボタンは5階と7階のふたつ、押されていた。

(どっちだ? どっちのフロアで降りるつもりだったんだー?!?)
 3階で止められたとき、目的のフロア以外のダミーの階数ボタンをとっさに押したのだろうか? それとも保険のため、いつも最初から2フロア分を押すのだろうか? いずれにせよ、悪魔のように機転の利く少女である。
 5階でエレベーターが止まった。ドアが開く。わたしは顔を出し、フロアの様子を確認する。階段室のドアにも視線を飛ばす。無人のフロアである。階段室ドアも開く気配がない。次は7階。同じことをくり返す。無人のフロア。微動だにしない階段室のドア。
 おそらく少女は、階段室のどこかに潜んで様子をうかがっているのだろう。
 「あやしいおじさんに追いかけられて、今、階段室に隠れている」
と親にケータイで連絡しているところかもしれない。ここでわたしが階段室に踏み込み、彼女の行方を探し出すと、新しい「罠」にはまりかねない。変質者決定だ。いやはや、小学生女子とのまさかの心理戦! 頭脳戦!

 完敗である。恐るべきくそが……あ、いや……お子さまだ。

 子どもに誘導され、上のフロアまで送り出された後、わたしは3階のフロアボタンを押した。自分の部屋にすごすご引き返す。

 幸いにもその後、ピンポンダッシュの被害はなくなった。めでたしめでたし……?
(了)

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