「漫画の神様」こと手塚治虫後期の代表作『ブラック・ジャック』の、単行本未収録エピソードを掲載した週刊少年チャンピオン(1974年6月24日号)をお譲りいただきました。
手塚治虫とは
手塚治虫は1928年大阪府豊中市生まれ、5歳の時に兵庫県宝塚市に移転。戦後間もない1946年より「少国民新聞」(現:「毎日小学生新聞」)にて『マアチャンの日記帳』や「京都日日新聞」の『珍念と京ちゃん』などを連載。1947年に発表した長編『新寶島(新宝島)』が大ヒットとなります。
1950年よりマンガ雑誌に自作を次々と発表。後に日本初のテレビアニメシリーズとなる『鉄腕アトム』や動物たちを主人公とした『ジャングル大帝』、宝塚少女歌劇団の影響も色濃い『リボンの騎士』といったヒット作を次々と発表していきました。

60年代には虫プロを設立し、かねてからの念願であったアニメーション製作に着手。良質なアニメとマーチャンダイジング展開による製作費の捻出を確立した『鉄腕アトム』は大成功でしたが、やがて後続他社の中に埋もれていきます。
『ブラック・ジャック』とは
1973年に虫プロは倒産。その負債を返す目的もあり同年に「週刊少年チャンピオン」でスタートしたのが『ブラック・ジャック』です。凄腕だが闇医師であるブラック・ジャックを主人公として、その奇跡のようなメスさばきと「命」にかかわる人間模様が一話完結形式で描かれました。
かつて手塚は医師への道を諦めた経緯がありました。終戦の年に大阪帝国大学附属医学専門部への入学を許され、漫画家として活動しつつもなんとか卒業し、1952年には医師国家試験にも合格しています。しかしその頃すでに漫画家としての実績を積んでいた手塚は医師にはなりませんでした。『ブラック・ジャック』の連載背景には、手塚の医学に対する心残りが幾分あったのかもしれません。
この時期、手塚の薫陶を受けた若い世代の台頭や劇画誌の流行もあり、人気商売でもある漫画業界の中ですでに手塚治虫は過去の存在となりつつありました。手塚に連載を依頼した少年チャンピオン編集長・壁村耐三も、当初は手塚の最期を見届けるつもりだったと言います。表紙や目次、次号予告ページにおける『ブラック・ジャック』の扱いを見ても、少なくとも本作連載初期は、手塚治虫はもう特別な存在ではなかったことがわかります。
しかしこの時期の週刊少年マンガは、次号への引きを作っていかに読者を毎号読ませる(買わせる)か、という展開ばかりでした。そうした中で『ブラック・ジャック』は、いつ終わってもよいように一話完結の読み切りスタイルで連載を重ねていきます。その斬新さと手塚自身の医療知識によるストーリーに、読者は惹きつけられていきます。
たちまち『ブラック・ジャック』はヒットとなり、少年マガジンでは『三つ目がとおる』がスタート。『火の鳥』の再開や『ブッダ』の新連載などで、1977年には手塚は6つの連載を抱えていました。
『ブラック・ジャック』「指」と「刻印」
今回お譲りいただいた1974年27号の「指」は、連載初期の第28話として発表されたエピソードです。指が1本多い状態で生まれる多指症によっていじめられていた間久部緑郎と、彼と旧友だったブラック・ジャック(BJ)が再会。暗黒街でのしあがり国際手配されるまでになった間久部は、かつて自分の指の切除を依頼したBJに、指紋を変える手術を依頼します。
手術を終え報酬を受け取ったBJですが、そのケースには爆弾が仕込まれており、BJは間久部の裏切りを知ります。
この「指」は連載終盤にあたる1978年に、第227話「刻印」へと再構成されました。「刻印」では多指症に関する表現はなくなり、間久部のBJに対する行動も真逆で、爆弾は部下の独断だったことになっています。同一の原稿を切り貼りしているため、「指」オリジナルの状態の原稿は存在しません。多指症に対する差別や偏見を助長するという判断だったのでしょうか、今後も「指」が世に出ることはないでしょう。
実は「刻印」についてはリアルタイムでチャンピオン誌上で読んでいます(当時8歳)。さすがに「指」の方は今回初めて読ませていただきましたが、差別的かどうかとは別に、間久部が終始BJに対して誠実であろうとした「刻印」のほうが好きですね。
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